富岡製糸場見学なのだ  平成22年5月3日


ゴールデンウィークと言えば、どこかに出かけなければいけないと言うような
強迫観念にとらわれるものなのだが、今年は福岡県にも岩手県にも行かなかった。

仕事で大胆不敵な連休が取れなかったのが理由の一つ、もう一つは天候不順が重なった
今年の春にちょっと疑心がさした事もありました。

連休とは言うが、1日は早朝より仕事、2日は朝から快晴だったので実家のガレージの床の再塗装
をした。 ヤフオクに出す部品など整理して撮影していたら一日は終わってしまった。

さて、3日は・・・・・







どこでも良かったのです。


もともと出不精だから。







しかし、近いこともあり前から気になっていた群馬県の富岡製糸場というのをi一度見てみたかったのだ。
もちろん、高速道路で行くとなれば 我がモトグッチに決まっている。
改造して1000tも排気量があれば、高速道路で3000回転も回せば十分なのだ。
長距離はモトグッチに限る。 バイク歴41年の結論である。



11時に
埼玉の我が家から関越にのる。
川越インターから乗ったとたんに渋滞だ。
のろのろ40キロばかりで流れていく。結局 ずっとそのままみたいなものだった。


富岡のインターをおりて10分もすれば、すぐに目的地の富岡製糸場跡だ。








まずは刑務所前の(いやいや製糸場跡)うどんやに入る。

その名を「おきりっこみ」という

なんだその「っ」ってのは「おきりこみ」ではいけないのか?
群馬は博徒の原産地だから 「殴りこみ」みたいでいけないのかな(笑)

どこにもありがちな名物ではありますが美味しかったです。750円也




さて、ここが入り口にある建物。この前で切符を買ったらたむろって待ちます。

なにを待つかって、言うと。




このボランティア風のおじさんの解説を待ちます。

正直、この遺産の説明を受けないと刑務所の見学の方が面白いくらい。
やはり、ここの見学は「物見遊山」ではなく学ぶ楽しみにあるのです。

 


どうよ、このみなさんの熱心さ。

  

冒頭、刑務所みたいと言ったのは、この窓もない頑丈そうな建物の印象でのこと。

これが明治5年に建設されて今日まで頑丈に生き残っている倉庫なのです。
倉庫だから、まどが鉄の頑丈そうなのです。横浜の赤レンガ建築群も倉庫でしたね。






これが昔の入り口風景
窓にはまだ鉄板は張られていない





  

植え込みがきれいです。 現代の工場と違い工場の敷地にはかなりのゆとりがあります。

なんせ江戸時代に生きた人たちが外国に倣ってレンガ一個から、自分たちで焼いて作った
群馬県産の西洋建築物なんでありますから。


  

この製糸場はフランス人技師を雇い入れ、すべてフランス式でこしらえています。



だからレンガの積み方もフランス式なのであります。
ちなみに煉瓦の隙間をうめるセメントがなくて、石灰を使った、漆喰に近いもので挟み込んでいます。
それが良く出来ていたのでしょう、現在まで大きな補修痕はないそうです。





煉瓦など見たこと無い群馬の田舎にこんなものを作るというのは大変だったでしょう。
埼玉から瓦職人を集めて焼かせたと言います。

 


明治4年 ただいま柱を近くの山から切り出してのこぎりで製材しています。

まだ働いている人は江戸時代のままです。

太い杉の木の柱に壁は煉瓦つくりの壁になっています。

和洋折衷というか、地震の多い日本でも耐えたのがこの骨格のおかげでしょうか。





ここは窓が大きくて明るい 糸をつむぐ所です。

大昔から昭和の終わりまで使い続けられて為に、当然昔の機械は撤去されています。

もう、日本に養蚕とか製糸工場などというものがほとんど無くなってしまい、

その技術も頂点で衰退を迎えました。だから、残されている機械も産業の遺産と言うわけです。

建物の中に残された近代的な紡織機の製造元は日産自動車とか

日産の前のタマ自動車の別な部署が20年もかけて考案した自動の機械だとか。

細い糸を自動で切れないようにつむぐなどと言うメカをどうやって動かしたのでしょうか。





  








左は診療所の跡。 寄宿舎も病院も皆そろえたという。

病気になり親元に戻れないままここで死んだ女工さんも多かったとか。

一日中高温で多湿な蚕から糸をつむぐ仕事は体に悪かっただろう。



日曜日も休みの一日7時間45分勤務。年間に75日程度の休みがあったとか・・・

つまりヨーロッパ式の工場だった。初期の働く人達も後年の女工哀史の時代とことなり

日本各地から集められた若い女性達で、帰郷して紡績を広める役割をになっていたので

江戸時代と比べると能力給も待遇も随分良かったとか。

江戸時代が悪すぎたとも言えるけど。

なんせ、国は絹織物の輸出で国家予算、外貨をひねり出す為に国をあげて必死だった。

武士の時代が終わった各藩も殖産事業として懸命だったに違いない。


体操をする工員たち




       


フランスからのお雇い外国人の宿舎の一部。

大変な高給で5年間雇ったとか。現在の給与で1000万円から1500万円

くらいの高給だったのではないかと言うのだ。

それにもまして、その後の日本が得た利益からすると格安だった。


  




始めは鉄のエントツだったが倒壊してコンクリートのエントツになったとか。

地元で掘り出した石炭で蒸気機関を動かしていたとか。

高台にある工場は更に高い煙突で煤煙を遠くに飛ばしていた。


江戸時代から養蚕の盛んな土地柄だった。

立地もよく考えたものです




窓からの灯りが頼り。

窓は大きく換気も屋根に開いた空気口から行っていた。

熱湯で繭を煮るから、さぞ、暑くて騒がしかっただろう。







   


何気なく残る金具や鉄の窓枠なども外国からの輸入品だった。

そこまでして日本は西洋から学びたかったのだろう。





倉庫の窓は火災や風雨から高価な絹を守った。

鉄板は後年張られたものでしょうか。

金具もフランス製だそうな。


    


倉庫内の骨組み


   



この長い100メートルを越える倉庫が二棟そのままで残っている。

産業革命時代の建築物をそのまま取り入れた遺跡はアジアにはここしか残っていないそうだ。




      


この建物はその後も100年以上も途切れなく使われていく。

こんな旧式な建物で働いた人も大変だったろう。

高度成長期の標語なんでしょう。片隅に置かれていました。

    

開業時代の蒸気機関で、現在は明治村にあるそうだ。











帰りに近くの古民家を改造した喫茶店で一休みする。

土壁のままにしてある。

レジでお金を払おうと目を上げると 金髪の若い外国人の女性がにこやかに立っていた。

日本語が上手いのでまさか外国人がいるとは思わなかった。


   


いい天気でした。気温も25℃ばかりありました。

渋滞で100キロばかりを来るのに2時間以上もかかった。

ここを「世界遺産」に登録したいのだと言う。

正直言って、日本の産業史に貴重な事は分かるが、施設の整備、昔の建物の復元は容易ではないだろう。

また寂れてしまった付近の街並みをどうするのか?

町全体を遺産とするくらいの、白川郷くらいの熱意とお金!が必要でしょう。

わずかですが募金してきました。

ガイドさんも熱心で、いい勉強になりました。





HOME


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送